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前田雅英先生の考え方

図書館で発見。

警察学論集 11月号(60巻11号)
http://www.tachibanashobo.co.jp/blog/magazine02/2007/004472..html

この中で、

<記念講義>平成の社会と刑事法理論の変化/前田雅英

があり、興味深く読みました。

刑法理論と実務の関係について、前田先生らしい考え方が披露されています。

以下、引用。
「日本とドイツは違うんです。大学ではお手本であるドイツに日本は近づくべきだと教えてきた面ん゛あるんですね。確かに現行の刑法のお手本はドイツ刑法典でした。機械を輸入して使い方が分からなくなったら製造元に見学に行くというのは自然です。しかし百年経って機械を日本流に改造しつつ使い込んで来た。そして日本の刑事司法の方がある意味上手く行っているんです。また法というのは文化の結晶です。日本の文化は日本に住む日本人が作り上げて来たのです。そうだとしたら日本型の刑法解釈がなぜ遅れているのでしょうか。法文の文言をどの程度厳密に解釈するのかというのも日本流というものがあると思うのです。
 もう百年経って日本の刑事司法を支えて来た法曹にもそれなりの蓄積・伝統というものができて来ていると思うのです。そして日本の法律家がドイツの裁判官に比べて劣るのでしょうか。私は絶対にそうは思わない。検察官、警察官を比較したって日本の刑事司法は非常に優れていると思うのです。時間があれば詳しくお話すべき事が色々とあるのですが、私は実務の感覚に則った日本型の条文解釈というものがこの裁判員時代、ロースクール時代にどんどん定着して行くと考えています」(54-55頁)。

「藤木英夫先生が亡くなられる直前まで私は教えて頂いて議論をしてして『共謀共同正犯は実務の感覚から言って絶対に認めなければおかしいと思うのだけど、何とかドイツの学説を探してきて理論化できないかね。ベルナーはどうだ。ヘルシュナーはどうだ』と。我々が随分古いヒゲ文字を読まされましたけど、今にしてみるとナンセンスです。藤木先生の言うことは正しいのですけれど何でドイツ語の文献がないと正しい理論にならないのか。藤木先生は学会でデビューした時、その頃かなり有名な木村亀二という先生にこてんぱんにやられるのですね。『君の言うことは正しい。だけどリストシュミットの25版の何頁にそれが書いてあるんですか』と聞かれて答えられなかったという話なのです。私は答える必要なんかないと思います。リストシュミットのというのは当時一番権威のあるとされたドイツの教科書の1つです。リストといういう人とシュミットというお弟子さんが書いた、25版は最後から2番目ですが、そういう積み上げられた大変な権威なんですね。そういうドイツの理論がバックにないとダメだとして学問は育ってきたんですが段々段々その束縛が取れて来るんですね」(56頁)

前田先生のここまで割り切った考え方の背景には何があるのか。「比較法・外国法が出来て一人前」と言われる研究者の世界の中で、あえてこのような見解をもつのには、何らかのバックグラウンドがあるように思います。前田先生がこのような見解をもつようになった背景には何があるのか。前田雅英という人物そのものに関心が移ります。

by espans | 2007-12-05 23:36  

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