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2つの記事

私だけ・・・
この2つの記事は、実はつながっていると思うのは、私だけ・・・?
(だいたひかる風に)

アンビバレンスと「議論」(おおすぎBlog)
http://blog.livedoor.jp/leonhardt/archives/50284284.html

ご紹介ありがとうございます。

判例を「救う」読み方(いとう Diary ~ academic and private)
http://blog.livedoor.jp/assam_uva/archives/51015422.html

判例・裁判例を『救う』読み方をすべきだ、ということを正面から述べている研究者を私は思いつかないのですが、一部の研究者(しかし、少なくない)で、そういう主張があることは確かだと思います(私の感覚では、関東の方にそういう傾向が強い気がします)。また、評釈類の中には、そういう主張を暗にもっている先生も見受けられます。

ただ、「学説」と「判例」は別物なのですから、学説における読み方を、そのまま判例に持ち込んではいけない、と私は思います。

[追記](2007.8.14)
いとう先生からコメントをいただきましたので、「最後の2行」の趣旨を含め、補足いたします。
最後の2行の趣旨について。「学説」は普遍的な法的構成ですから、それを端的に批判するのは自由だと思います。しかし、判例は具体的事案の下で下されているわけですから、学説を批判するのと同じ感覚で、「判例の法的構成はおかしい。以上」としてしまうのは、やはりまずいのではないか、と思うわけです。その意味で、「学説」と「判例」の読み方は、異なると私は考えているわけです。
また、判例は学説と違い、今後実務において、「事実上の」拘束力を有するもので、かつ、判例変更が「事実上」見込めない我が国においては、「判例の法的構成はおかしい、以上」とするのではなく、判例をふまえた上で、射程、関連問題への影響を論じた方が生産的であると考えています(ただし、何が判例かは大問題)。

以上、説明してきました。私自身、判例・裁判例を「救う」読み方を意識したことは一度もありませんでしたが、以上書いてみると、いとう先生が批判というか疑問の対象とされている「判例・裁判例を『救う』読み方」を、私は無意識のうちにしてきたのかもしれません。

by espans | 2007-08-13 18:29  

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