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刑事訴訟法のテキストとして

こちらも改訂。私が刑事訴訟法分野で、最も気に入っているテキストです。

田中開=寺崎嘉博=長沼範良『刑事訴訟法 第3版』
http://www.yuhikaku.co.jp/bookhtml/comesoon/00068.html

犯罪被害者等が刑事裁判に参加する制度の新設など,最新の立法にも対応しているようです。

刑事訴訟法のテキストで、現時点で最も優れた1冊だと思います。コンパクトサイズながら、情報量は十分だと思います。また、刑事訴訟法という法律の条文に従い、制度の説明がしっかりとされているのが、よいと思います。
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by espans | 2008-03-27 08:40  

佐久間先生の『民法の基礎1』が改訂へ

佐久間毅『民法の基礎1 総則 第3版』
http://www.yuhikaku.co.jp/bookhtml/comesoon/00056.html

一般法人法・公益法人法の制定に対応するようです。

京都大学出身の先生と言うと、判例・通説に果敢にチャレンジ、という傾向が強く、教科書にもそれが出ている先生が多いように思います(その代表格が、潮見佳男先生。もちろん、学生向けのテキストでは、判例・通説の説明がなされています。が、判例・通説の説明が、独特なところもあるような気がします)。
しかし、佐久間先生の教科書は、判例の考え方を丁寧に、正確に説明されており、入門者から上級者まで幅広くすすめられる一冊だと思います。特に、『民法の基礎2 物権』は、現時点で物権総論分野で最も優れた教科書だと思います。

改訂が楽しみです。
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by espans | 2008-03-27 08:36  

法律書新刊ラッシュの季節

買おうと思っていた本が、改訂されることもありますので、入念に情報収集されることをおすすめします。

以下は、有斐閣のホームページより。

刊行予定一覧(2008年3月25日現在)
http://www.yuhikaku.co.jp/newbooks/comesoon.html
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by espans | 2008-03-27 08:30  

一筋縄にはいかない問題

shoyaさんが珍しく長文の意見表明をされていました。

【余談】 Interesting News : Mar 25. 2008(教えるとは希望を語ること 学ぶとは誠実を胸に刻むこと)
http://etc-etc-etc.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/interesting_new_0172.html

慶應大学法科大学院の問題に触れて、法科大学院における補講や課外授業のあり方について、shoyaさんがコメントされています。
基本的にshoyaさんの見解に賛同できますが、若干異なるところもあるので、私の見解も述べておきたいと思います。

私も補講や課外授業の全てが悪である、とは考えていません。shoyaさんご指摘の通り、「既に正確な法律学の知識を有している先生方に指導してもらうということは、 適切な方法であり、かつ効率的な方法」、というのはその通りだと思います。

しかし、法科大学院の場合、いくつかの特有事情も考えなければならないと思います。

まず、補講や課外授業の充実は、「正課の形骸化」の危険がある、ということです。すなわち、法科大学院の制度趣旨からは、正課があくまでメインであって、補講や課外授業はその「補助」であるべきですが、下手をすると、正課が形骸化し、補講や課外授業が充実、という主従逆転現象が起きる危険があります。これでは、「法学部の授業は無視。試験対策は全て予備校で」という旧司法試験時代と変わらなくなってしまいます。

法学部時代は正課の形骸化でもいいでしょう。しかし、法曹養成機関たる法科大学院では、それは許されません。問題のある「正課」は改善されなければなりません。正課の形骸化が起きているような法科大学院は、例え補講や課外授業が充実していたとしても、自力では法曹を養成できないのですから、即刻、法科大学院の市場から退場すべきでしょう。それが、日本の法曹制度のためであり、利用者である国民の幸福のためにつながるでしょう。

また、正課と課外授業との関連性も問題となります。例えば、課外講座として若手弁護士を動員している法科大学院は少なくありませんが、それがうまくいっているのかは、一筋縄ではいきません。
「授業では先生がこう言っていました」と若手弁護士に言うと、「そんなものは学者の屁理屈で、実務では通じないのだから、無視しなさい」という指導がされる危険もあります。例えば、刑法を例に取ると、正課で担当教授が結果無価値論ベースの体系で講義したにも関わらず、課外授業の若手弁護士が、「実務は行為無価値なのだから、授業は無視しなさい」と言うこともあり得るでしょう。
この場合、授業の方が悪いのか、若手弁護士の方が悪いのかはケースバイケースでしょうが、課外授業は下手をすると、正課を破壊する危険がある、ということは指摘しておきたいと思います。この場合、正課を無視している院生はいいのですが、両方を真面目に受けている院生は、混乱するだけでしょう。

よって、補講や課外授業の是非は、一筋縄ではいかない問題だと思います。

また、慶應大学法科大学院は、漏洩事件があるまでは、新司法試験委員を多数輩出しており、その意味では、新試験を「作る」側であったと言ってもいいでしょう。そうであれば、補講や課外での対応よりも、まずは試験のあり方を、積極的に提言すべき立場にあったように思います。

なお、法科大学院における答案練習のあり方について。
最近は、法科大学院における答案練習会の是非が問題となっています。答案練習の必要性は否定できないと思いますが、法科大学院がやるべきことは他にもあるような気がします。例えば、要件事実論や、刑事事実認定、模擬裁判、リーガルクリニックなどの実務系科目を充実させて、実務に直結する能力を養成させるべきでしょう。もっと言えば、正課カリキュラム、その内容、スタッフを見直すという作業がまず必要です。また、そもそも、答案練習会は、やはり長年の蓄積があり、かつ、試験対策に専念している予備校の方が、アドバンテージがあるような気がします。試験対策の「新参者」である法科大学院が、予備校のまね事をしても、効果は疑問でしょう。

また、実務家養成というのであれば、答案練習会を設けるよりも、教育能力のない教員や、判例・通説を曲解した上で批判し、学生を混乱させ、極端少数説を振りかざす学者を即刻、法科大学院から追放した方が、将来法律家を目指す院生のためでしょう。

全ての法科大学院生が、法科大学院に答案練習の場を増やして欲しい、と思っているのではないと思います。むしろ、法科大学院でしか学べないことを学ぶ機会をつくってほしい、と思っている院生も多数いると思います。
本当に法科大学院に必要なのは、答案練習会にかける労力なのかはストレートには言えません。刑事系を例に取れば、答案練習会よりも、刑事裁判官等による刑事事実認定の方が、法科大学院でしか学べない、という点で意味があるのではないでしょうか。
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by espans | 2008-03-27 08:22  

テレビ寺子屋

テレビ寺子屋 国家公務員制度改革基本法案<3/26 15:54>(日テレNEWS24)
http://www.news24.jp/105907.html

PS
最近、ある方から「最近のblogはテレビ寺子屋とaikoトピックばかりですね」と突っ込まれてしまいました。
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by espans | 2008-03-27 07:32  

テレビ寺子屋「メタボ健診」

テレビ寺子屋「メタボ健診」<3/19 16:55> (日テレNEWS24)
http://www.news24.jp/105459.html
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by espans | 2008-03-21 01:52  

発売!

発売されました!

aiko「二人」
http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%8C%E4%BA%BA-aiko/dp/B00135C4N2/ref=pd_bbs_sr_2?ie=UTF8&s=music&qid=1205352805&sr=8-2
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by espans | 2008-03-13 05:15  

なぜ議論するのか

なぜ議論するのか? (おおすぎBlog)
http://blog.livedoor.jp/leonhardt/archives/50547290.html

以下引用。

「しかし、すべてを法文に書き切ることは不可能ですし、どのような形で事件が生じるかを事前にすべて予測しようとせずに、ある種の問題は事件が起きてから答えを決めれば良いではないか、とも考えられます。これは、法律に限らず、人間社会のあちこちで見られる「知恵」ではないでしょうか」

賛成です。
私は人間という存在に極めて懐疑的でありますが、他方で、おおすぎ先生の挙げられる人間の「知恵」というものを信じて良いとも思っています。矛盾かも知れませんが、人間は矛盾した存在でいいと思っているので、現時点ではこういうのが私の考えです。

議論というのは、議論を始めた人にしか分からないことがあります。

しかし、私を含め、多くの法律の学習者は、議論がどこから出てきたのか認識しないまま、「学説の対立なる」議論に付き合わされます。そのようなとき、「なぜ議論しているのか」ということを立ち止まって考えてみると、理解が一層深まるように思います。
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by espans | 2008-03-13 05:04  

テレビ寺子屋 日銀総裁の後任人事

テレビ寺子屋 日銀総裁の後任人事<3/12 11:18> (日テレNEWS24)
http://www.news24.jp/104982.html
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by espans | 2008-03-13 04:35  

味わって読みたい「反対意見」

広島市暴走族条例事件判決
最判平成19年9月18日判時1987号150頁LEX/DB28135434

私自身はギリギリのところで多数意見に賛成ですが、田原睦夫裁判官の反対意見は、大変迫力のあるものでした。

「裁判官田原睦夫の反対意見は,次のとおりである。
 多数意見は,本条例がその文言どおりに適用されることになると,憲法21条1項及び31条との関係で問題があることを認めながら,限定的に解釈すれば,いまだ憲法21条1項,31条に違反するとまではいえない,とするが,私は,本条例は,通常の判断能力を有する一般人の視点に立ったとき,その文言からして,多数意見が述べるような限定解釈に辿りつくことは極めて困難であって,その規定の広範性とともに,その規制によって達成しようとする利益と規制される自由との間の均衡を著しく欠く点において,憲法11条,13条,21条,31条に違反するものと言わざるを得ないと考える。以下,その理由を述べる。
1 本条例は,その規制の対象者及び規制の対象行為が極めて広範である。
(1)規制対象者について
 本条例は,多数意見の1の(1)に引用されているとおり,16条1項1号に該当する行為をし,かつ17条による市長(その権限受任者)の中止命令又は退去命令(以下,「中止命令等」という。)に違反した者を19条により刑事罰に処するものであるが,その適用対象者は,16条1項柱書に記載されているとおり「何人も」であって,本条例制定の目的とする「暴走族」ないし「それと同視することができる集団」という限定は付されていない。
 多数意見は,本条例の目的規定や,本条例には暴走行為自体の抑止を眼目とする規定が数多く含まれていること,本条例の委任規則である本条例施行規則3条は,本条例17条の中止命令等を発する際の判断基準として暴走族であることを前提とする諸規定を設けていること等を総合すれば,「本条例が規制の対象としている『暴走族』は,本条例2条7号の定義にもかかわらず,暴走行為を目的として結成された本来的な意味における暴走族の外には,服装,旗,言動などにおいてこのような暴走族に類似し社会通念上これと同視することができる集団に限られるものと解され」るとするが,本条例16条の「何人も」との規定を多数意見のように限定して解釈することは,通常の判断能力を有する一般人において,著しく困難であるというほかはない。しかも,本条例の制定過程における市議会の委員会審議において,本条例2条7号の暴走族の定義を「暴走行為をすることを目的として結成された集団をいう」と修正し,また16条1項につき,「何人も」とある原案に対して,「暴走族の構成員は」と修正する案が上程されたが何れも否決されているのであって,かかる条例制定経緯をも勘案すれば,多数意見のような限定解釈をなすことは困難であるというべきである。
(2)規制対象行為について
 本条例の中止命令等の対象となるのは,市の管理する公共の場所において,市の承認又は許可を得ないで,特異な服装をし,顔面の全部若しくは一部を覆い隠し(以下,両行為を合わせて「特異な服装等」という。),円陣を組み,又は旗を立てる等威勢を示すことにより,公衆に不安又は恐怖を覚えさせるようない集又は集会を行うことである(16条1項1号,17条)。
 なお,上記施行規則3条は,中止命令等を行う場合の判断に際し勘案すべき事項を定めているが,その中には,後述する1号等,暴走族に直接結びつくものもあるが,「明らかに人物の特定を避けるために顔面の全部又は一部を覆い隠している者の存在」(2号),「他の者を隔絶するような形での円陣等い集又は集会の形態」(3号),「その他社会通念上威勢を示していると認められる行為」(6号)などは,その規定の対象行為自体からは直接暴走族に結びつくものではなく,かつその対象行為が広範であり,殊に6号は,何らの制限も加えられていない一般条項的な規定である。また,同規則自体は,本条例の内容を律するものではなく,中止命令等を発する場合の準則にすぎないものである。
以下,本条例が規制の対象とする主な行為について検討する。
ア 服装について
 本条例17条は,「特異な服装」をして,い集又は集会することを規制の対象とする。施行規則3条1号は,「暴走,騒音,暴走族名等暴走族であることを強調するような文書等を刺しゅう,印刷等をされた服装等特異な服装を着用している者の存在」と規定し,「特異な服装」について一応の限定を付するかの如きであるが,同号は,本条例17条に定める「特異な服装」の解釈規定ではないうえ,「特異な服装」は同号に限定されず,同号に該る服装を着用していなくても「特異な服装」をして「他の者を隔絶するような形での円陣等い集又は集会」(3号)をしていれば,中止命令等の対象となるとするものであって,結局服装について,「暴走族,又はそれに準ずる集団に属することを想起させるもの」に限定してはいないのである。
 人が,道路や公園等開かれた公共の場所において,如何なる服装をするかは,憲法11条,13条の規定をまつまでもなく本来自由であり,それが公衆に不快感や不安感,恐怖感を与えるものであっても,それが,刑法や軽犯罪法等に該当しない限り,何ら規制されるべきものではない。
 殊に,服装が思想の一表現形態としてなされる場合には,憲法21条との関係上,その表現行為は,尊重されなければならない。そして,その表現行為の中には,髪形や身体へのペインティング等をも含め,今日の社会常識からすれば,奇異なものも含まれ得るのであり,また例えば平和を訴える手段として骸骨や髑髏をプリントしたシャツを着用する等,一見それを見る者に不安感や恐怖感をもたらすものも存し得るが,それらの表現行為が軽々に規制されるべきでないことは言うまでもない。ところが本条例では,上記のような服装も中止命令等の対象となり得るのである。
イ 「顔面の全部若しくは一部を覆い隠す」行為について
 本条例17条は、かかる行為につき,何らの限定も設けておらず,また施行規則3条2号は「明らかに人物の特定を避けるために顔面の全部又は一部を覆い隠している者の存在」を中止命令等発令の基準として定めているところ,それらの規定からは,顔面の全部又は一部を覆い隠す行為と暴走族等との直接の結びつきは認められないのである。 
 人物の特定を避けるために顔面の全部又は一部を覆い隠す行為は,日常の社会生活においても時として見受けられるのであって,例えばいわゆる過激派集団の一部が参集する際に,ヘルメットを着用したうえでタオルで顔面を覆い隠していることは周知の事実であり,また,一部の宗教団体において,ヴェールで顔を覆い隠す等のことがなされている。それらの行為をも含めて,同人らがい集し又は集会を開催することが,公衆に不安又は恐怖を覚えさせるときは,中止命令等の対象となり得るのである。
ウ 「い集」行為について
「い集」とは「蝟(はりねずみ)の毛のように,多く寄り集まること」(広辞苑第5版)を意味しているが,い集している集団は,集会と異なり,その参加者に主観的な共同目的はなく,個々人が,その自由な意思の下に,単なる興味目的や野次馬としても含めて,随時集っている状態である。
 憲法11条や13条の規定をまつまでもなく,民主国家においては,道路や公園等,公共に開かれた空間を人々は自由に移動し,行動することができるのであるが,本条例は,「い集」した集団が「特異な服装等」をしていれば,その規制の対象にするものである(なお,本条例は,市の管理する公共の場所で市の承諾又は許可を得ないで,上記のごとき「い集」をすることを中止命令等の対象としているが,「い集」している集団には,主催者なるものはあり得ず,予め市の承諾又は許可を得る主体は存し得ないのであり,従って「市の承諾又は許可を得たい集」なるものは有り得ないのである。それ故,本条例に基づいて,い集している集団に対して,中止命令等を発令し,その命令違反を刑事罰に問うことは,不能な条件を付した構成要件に該当する行為を犯罪に問うものであって,その点においても憲法31条に違反するものと言わざるを得ない。)。
(3)規制の対象が広範囲であるが故の違憲
 以上,(1),(2)で検討したとおり,本条例の規制対象者は,本条例の目的規定を超えて「何人も」がその対象であり,その対象行為は,本条例の制定目的を遥かに超えて,特異な服装等一般に及び得るのであって,その対象行為は余りに広範囲であって憲法31条に違反すると共に,民主主義国家であれば当然に認められるいわば憲法11条,13条をまつまでもなく認められる行動の自由権を侵害し,また,表現,集会の自由を侵害するものとして憲法21条に違反するものであると言わざるを得ない。
2 本条例は,その規制によって達成しようとする利益と,規制される自由との間の均衡を著しく欠いている。
(1)本条例の保護法益及び侵害行為について
ア 本条例の保護法益について
 本条例は,暴走族による示威行為等を規制することによって,市民生活の安全と安心が確保される地域社会の実現を図ることを目的として制定されたものである(1条)が,本条例が刑事罰をもって保護しようとする利益は,上記の市民生活の安心と安全の確保のうち,市の管理する公共の場所を市民(公衆)が,特異な服装等をしている者の威勢行為によってもたらされる「不安」や「恐怖」を抱くことなく,安心して利用することができるという利益であり,市民生活の安心と安全のうちの極く限られた場面における利益である。しかも,その「不安」や「恐怖」は,次に述べるように具体性を伴うものではなく,漠としたものでしかない。
イ 本条例が抑止しようとする侵害行為
 本条例が刑事罰をもって抑止しようとする行為は,上記のとおり特異な服装等をしてい集又は集会している者が威勢を示すことによって公衆に「不安」や「恐怖」をもたらす行為である。その威勢行為それ自体は,その文言から明らかな如く,具体的な犯罪行為そのものや犯罪行為を想起させる行為ではない。また,威勢を示す行為によってもたらされる「不安」や「恐怖」の具体的内容を本条例は規定していないが,少なくとも具体的な犯罪事実が発生することないしその虞に対する「不安」や「恐怖」ではないことは,その規定内容からして明らかである。そうすると,本条例によって抑止しようとする「不安」や「恐怖」の対象は,未だ犯罪事実として捉えることができない段階のものを意味しているものと解されるのであり,本条例の立法事実をも踏まえれば,精々で特異な服装等をしてい集又は集会している者から「絡まれる」,「因縁をつけられる」,「睨まれる」,「凄まれる」おそれ等による「不安」や「恐怖」を意味するものと解される。本条例は,そのような漠たる「不安」や「恐怖」をもたらすおそれのある威勢行為を抑止しようとするものである。
(2)本条例の規制対象行為と規制内容
 本条例の規制対象行為は,公共の場所における服装等の自由という,民主主義社会における,いわば憲法11条や13条によって保障される以前の自由の範疇に属する自由な行動に対する規制であり,又服装等によってなされる表現の自由,かかる表現者による集会の自由に対する規制である。
 しかも,その規制内容は,「行為の中止又は当該場所からの退去を命じる」という,個々人が有している上記自由に対する直接的な規制である。即ち「特異な服装等」をしている者に対し,その中止即ちその服装の脱衣(ボディペインティングであれば,脱色する等)やい集,集会の解散を命じ,あるいは公共の場所からの退去を命じることができるのである(本件では,市長に代行して本条例に基づく中止命令等を発する権限を与えられた市職員は,被告人に対し,「条例違反になるから,特攻服を脱ぐか,すぐ退去しなさい」と命じている。)。
(3)本条例の保護法益ないし侵害行為と規制内容は,合理的均衡を著しく失している。
 本条例が保護しようとする法益は,上述のとおり市が管理する公共の場所を利用する公衆が「不安」又は「恐怖」を抱くことなく利用できる利益であり,また,規制しようとする侵害行為は,かかる「不安」又は「恐怖」を生じさせるような威勢を示す行為であるが,その「不安」や「恐怖」の内実は,具体的な犯罪事実の発生やその虞以前の漠とした「不安」,「恐怖」でしかない。
 それに対して,本条例が市長による中止命令等という行為を介してではあるが,刑事罰をもって規制しようとする行為は,服装等の自由,行動の自由という憲法によって保障される以前の本来的な自由権であり,また表現,集会の自由である。しかも本条例は,前記のとおりそれらの自由を直接規制するものである。
 しかし,上記の自由は,民主主義国家における根源的な自由として最大限保護されるべきものであり,その規制が一般的に認められるのは,当該公共の場所たる道路の交通秩序の維持(道路交通法6条4項,76条4項)や公園における利用者相互の調整(広島市公園条例4条4項4号(公園において集会その他これらに類する催しのために公園の全部又は一部を独占して利用する場合に市長の許可を要する。),5条7号(公園の利用者に迷惑を及ぼす行為の禁止))等,公共の場所の管理に必要とされる限度に止まるのであって,それを超えて,上記の自由を規制するには,公共の安全の確保,危険の防止等,その規制の必要性を合理的に認め得るに足りるだけの事由が存するとともに,その規制が,その目的達成のために最低限必要な範囲に止まることが必要であるというべきである。
 ところが,前記のとおり,本条例によって保護されるのは,市が管理する公共の場所を利用する公衆の漠とした「不安」,「恐怖」にすぎず,他方規制されるのは,人間の根源的な服装や行動の自由,思想,表現の自由であり,しかもそれを刑罰の威嚇の下に直接規制するものであって,その保護法益ないし侵害行為と規制内容の間の乖離が著しいと解さざるを得ない。
 したがって,かかる視点からしても,本条例は憲法11条,13条,21条,31条に反するものであると言わざるを得ないのである。
3 限定解釈について
 多数意見は,本条例を限定的に解釈することにより,違憲の問題は克服できるとし,また,堀籠裁判官は,その補足意見において,本条例につき合理的限定解釈ができる由縁を敷衍される。
 最高裁判所は,これ迄に,堀籠裁判官の補足意見で引用される判例ほかにおいて,憲法違反の有無が問題となり得る法律や条例につき,限定解釈をなすことにより,当該事案との関係において違憲の問題が生じないとの判断を示してきた。
 私も過去の最高裁判所が示してきたような限定解釈の可能性を否定するものではない。しかし,それらの判例において,常に反対意見や意見が表明されているように,如何なる場合に限定解釈により合憲として判断できるかについては,なお意見が岐れていたところである。
 私は,形式的には法律(条例)が憲法21条,31条等の諸原則に抵触するにかかわらず,それを限定解釈によって合憲と判断できるのは,その法律(条例)の立法目的,対象とされる行為に対する規制の必要性,当該法律(条例)の規定それ自体から,通常人の判断能力をもって限定解釈をすることができる可能性,当該法律(条例)が限定解釈の枠を外れて適用される可能性及びその可能性が存することに伴い国民(市民)に対して生じ得る萎縮的効果の有無,程度等を総合的に考慮し,限定解釈をしてもその弊害が生じ得ないと認められる場合に限られるべきであると考える。
 かかる視点から見たとき,1において検討したように,本条例は,その規定の文言からして,通常の判断能力を有する一般人にとって,多数意見が述べるような限定解釈をすべきものと理解することは著しく困難であり,それに加えて,2で述べたとおり,その保護法益ないし侵害行為と規制される自由との間に合理的均衡を著しく欠いているものと言わざるを得ないのであって,かかる点からしても本条例の合憲性を肯定することはできない。
 多数意見のように限定解釈によって,本条例の合憲性を肯定した場合,仮にその限定解釈の枠を超えて本条例が適用されると,それに伴って,国民(市民)の行動の自由や表現,集会の自由等精神的自由が,一旦直接に規制されることとなり,それがその後裁判によって,その具体的適用が限定解釈の枠を超えるものとして違法とされても,既に侵害された国民(市民)の精神的自由自体は,回復されないのであり,また,一旦,それが限定解釈の枠を超えて適用されると,それが違憲,無効であるとの最終判断がなされるまでの間,多くの国民(市民)は,本条例が限定解釈の枠を超えて適用される可能性があり得ると判断して行動することとなり,国民(市民)の行動に対し,強い萎縮的効果をもたらしかねないのである。
 なお,私は,暴走族が公共の場所において傍若無人の行動をなすことによって,公共の場所の一般的利用者の利用が妨げられるのを防止すべく,条例を以て規制すること自体は適法であると考える。そして,本条例は,一応その目的の下に制定されたものであり,本件における被告人の行為は,本条例が目的とした主要な規制対象行為そのものに該当するといえる。しかし,以上検討したとおり,本条例自体が違憲無効である以上,被告人の行為を罪に問うことができないのは,やむを得ないといえよう」
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by espans | 2008-03-10 09:28