経済的自由・財産権と判例・学説

経済的自由・財産権の制約について、最高裁判例をもう一度読み直す機会を与えてくれる論説です。かなり難しめの内容ですが、オススメです。
「精神的自由の優越的地位」(とこれと密接に関連する「二重の基準」論)と、経済的自由の文脈で語られる「目的二分論」の見解の当否は別としても、最高裁が精神的自由について違憲判決を出していないこと、むしろ経済的自由・財産権の分野で違憲判決が出されていること、を我々は十二分に考えなければならないと思っています。

※なお、「二重の基準」論と、「目的二分論」が、全く別物であることを、正当に指摘するものとして、「【憲法】 目的二分論と二重の基準論の関係について」(教えるとは希望を語ること 学ぶとは誠実を胸に刻むこと)を参照。

石川健治「憲法の解釈 30年越しの問い-判例に整合的なドグマーティクとは」法学教室332号59頁以下
「経済的自由の判例理論を問われた場合、現状での模範答案は、依然として、規制目的が消極目的か積極目的かで審査基準を使い分ける、『二分論』のようである。問題のふたつの判決は、ほんとうは、主体としては『事業者』の、客体としては『営業』の、形式としては事前抑制である、営業許可制にかかわる事件でしかない。しかし、自然人と法人、私企業と公企業を問わないあらゆる法人格の、フローとストックを問わない経済活動百般の、事前・事後、直接・間接など規制の強度は一切度外視した、すべての規制を、田中二郎のいわゆる『規制法』か『警察法』かのいずれかに二分することができ、しかもそれだけで事足りる、と考えるのが、現時点でもパッサブルとされる答案構成である。しかし、この答案構成に、最高裁の森林法判決は、落第点をつけた。1987年のことである。ここから混乱が始まったのだ。早いもので、もう20年になる。
 そもそも薬事法判決は、一般に考えられているよりも、遙かに構築性の高いテクストである。戦後西ドイツの憲法判例を下敷きにしつつ、部分的には、薬局判決以降の判例まで採り入れた形跡がある。そのうえで、先行する公衆浴場判決や小売市場判決を念頭におきつつ、それらとの事案の『区別』を通じて、自らのドイツ的な構成との調和をめざしているのである。完全に破綻なく成功しているかは別論としても、相当な知恵者が最高裁内部にいたことは間違いない。そうした判決の練り上げられた論理に対して、われわれは、余りにも皮相な読み方しかしてこなったのではないか。或いは、その後の最高裁自身も、自らの編み出した理屈を、充分に活かしてはこなかったのではないか。

Ⅱ 森林法判決20年後

 まず、これまで流通してきた判旨(昭和50年4月30日最高位大法廷判決(薬事法違憲判決事件)-ESP補足)の要約で、必ずといってもよいほど省略されてきたのが、冒頭の一節である。『職業は、人が自己の生計を維持するためにする継続的活動であるとともに、分業社会においては、これを通じて社会の存続と発展に寄与する社会的機能分担の活動たる性質を有し、各人が自己のもつ個性を全うすべき場として、個人の人格的価値とも不可分の関連を有するものである。』ありきたりの社会分業論と読み飛ばされもしようが、ここに示されたロマン派的な『個性』観は、憲法学説が説く戦後啓蒙的な『人間』像に対抗的であり、その帰結するところ、社会契約説と対立する、社会有機体論すら示唆している一方で、デュルケーム的な有機的連帯論にはじかに接合する。
 かかる文脈を踏まえて、判旨は人格権こそを第1級の人格権とみなしている。これは、戦後西ドイツにおける特に初期の憲法判例を支配した、人格主義的な基本権理解を基礎にしたものであって、日本の主流的な憲法学説が導入に努めてきた、『精神的自由の優越的地位』をなかば公理とするアメリカの判例・学説とは、議論の出発点からして異なっており、むしろ、ドイツ学説の影響力が現在でも根強い民法学の人格権論の方に親和的である
(中略)
 つぎに、(薬事法違憲-ESP補足)判決が示した、立法裁量の統制基準をどう考えるか、という問題がある。それは、どうみても『二分論』ではない。『比例原則』であろう」

さらに、61頁の注11)
「比例原則は、最高裁判所の憲法判断の基礎に捉えられ、いまやほぼ盤石のものとなっているのが実際である。ここでも、教科書上の判例解説との間には、大きな『乖離』がある。判例紹介の信頼性は、教科書として保つべき最低限度の要件であろうのに、である」
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by espans | 2008-04-21 16:04  

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